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村山盛忠「7世紀のイスラーム到来期におけるコプト教会の動向」 [講義-神学等]

(2010日)講師は日本キリスト教団の村山盛忠牧師。

コプトと東ローマ帝国との関係、
ササン朝やイスラムのとの関係だが、拝聴する。

「イスラムとの対話はない。既に共存している」
とのことでした。

気持ち良く啓発されました。



----memo

コプト(=エジプト)

ナショナルな意識が強い 民族意識ではない

政治的社会的構造からくる意識ではない

地理的政治的状況で宗教が生まれてきた


1)中世前後のエジプトの政治的宗教的背景

2つの柱
   ・東ローマ帝国 皇帝の存在

   ・451年 コプトをはじめ異端視 政治的分断
      
     皇帝派教会と反皇帝派教会という構造

    
 582年マオリキオス皇帝時代からハカス皇帝 
    ヘラクレイオス皇帝の時にイスラムの到来



  313 コンスタンティヌス大帝 公認
      最初のキリスト教の皇帝
     使徒と同列の聖なる皇帝
      皇帝の名で会議を招集
      人種や民族バラバラ→  教会の一致が皇帝の課題


 ・カルケドン会議は何だったか
    教義は会議の議題ではなかった
  
  主流3主教 
  ローマ主教 アレクサンドリア主教 アンテオキア主教  

  アレクサンドリア→コンスタンチノポリ に格の変更の採決
  アレクは反対 出ていく → 異端視 追放
 
  皇帝が任命した総主教 とで2人の総主教


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  エジプト 穀物が豊富 →東ローマ帝国が成り立ってた

  ユスティアヌス皇帝(ハギアソフィア聖堂)財政悪化
  
  ヨハネス コプトの主教 アラブ到来期
  
   マウリキオス皇帝をクーデターで追放後10年間ついた
  フォカス皇帝 → ヘラクレイオス皇帝

   この時、ササン朝619~629年 占領 
   この10年間の記録が欠落しているが、
     コプト住民にとっては保護され自由だった。

    ヘラクレイオス奪還
        が、コプトにとって第2の迫害機
                  第1は1~3世紀の迫害
              殉教者歴を使うようになった
       
        皇帝派キュロス総主教が大弾圧   
      まずは神意論使うが失敗
   次に軍事的に

      アラブ・イスラム直前期

  
 結論 7世紀のイスラム到来によって、ある面で解放された
   そこから独自なナショナルな意識をもった
  国際性をもったコプトの歩みが生まれる

 
   コプトにとって修道院は非常に重要
   砂漠は魂の実験場 修道士が増大 ある時2万?

  
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  シノーダ総主教
  イスラームとの対話はない。既に共存している。

 レバノンのスンナ派指導者 9.11後
 十字軍をキリスト教が言えば、隣人のコプトが苦境となる

 
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津田大阪九條教会牧師
    支配者以前に 民側からアイデンティティー
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