「キリスト者の報いと損害」第一コリント3章10節から15節 [雲の柱・火の柱]
(2013日)考えされられることです。
祈っていても我欲が残り執着するのは良くないですね。
身を任せた状態の時もあれば、そうでない時もある。
肉の自分があるが、完全に肉でなくなれば、それが完成形なのでしょう。
動機がずれて別の何かに執着してはいけないと了解いたしました。
---memo
裁かれることはないが、報いと損害がある
動機が試される
結論、日々の祈りと礼拝
肉的キリスト者にパウロは書いている
動機がずれてミニストリーのためになる
王である祭司として日々、祈りと礼拝が大事
今、キリストに身を明け渡しているのか、いないのか
祈っていても我欲が残り執着するのは良くないですね。
身を任せた状態の時もあれば、そうでない時もある。
肉の自分があるが、完全に肉でなくなれば、それが完成形なのでしょう。
動機がずれて別の何かに執着してはいけないと了解いたしました。
---memo
裁かれることはないが、報いと損害がある
動機が試される
結論、日々の祈りと礼拝
肉的キリスト者にパウロは書いている
動機がずれてミニストリーのためになる
王である祭司として日々、祈りと礼拝が大事
今、キリストに身を明け渡しているのか、いないのか