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「預言された背教」使徒20章29節から32節 [雲の柱・火の柱]

(2020日)

背教的な人であっても、叩いて自分に注目させることも背教的だということでした。

10代の頃は他人の粗ばかりを見る人間だったのですが、まさに背教的ですね。
が、批判すべきことを批判せずに日和見を気取ることが聖書的でもないでしょう。

2人の証人がいなければ批判を受け入れてはならないと、聖書にあったと記憶しますが、
それを承知の牧師が1対1で悪の言動を行った場合、被害者と称する者の言葉を軽視無視していいのか、となる。

私も某のぞき教会で受けた言葉もありましたし、
某教団では牧師のレイプで自殺させるという、信じられない感度の者たちが説教しています。

もちろん、自らの経験や学びで真摯な活動をなされている方も多くいます。
批判している自分に陶酔してはならないということだと思いますね。





---memo

現在の背教も預言されていた
パウロが対処法

第3次 エペソで 

32 外から狼が入る 内からも

いつも祈る
パすティーに 委ねる 神の側に置く
 私がいなくてもあなたがたは大丈夫です


光の内に光を見る


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