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第97篇~第100篇 [詩篇]

短いけれども、格調高い




100-3 NIV
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Know that the Lord is God.
It is he who made us, and we are his[a];
we are his people, the sheep of his pasture.
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新共同
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知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
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神と人間の関係を記す。
徹底的に謙虚でなければならない。

モーセですら、自分を神の如く口にした1回の罪でカナンに入れず死ぬこととなった。


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第96篇 [詩篇]

俘囚後の詩のようだ。


13 NIV
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Let all creation rejoice before the Lord, for he comes,
he comes to judge the earth.
He will judge the world in righteousness
and the peoples in his faithfulness.
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新共同
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主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。
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地や人を裁くために主は来られると言う。
この詩の作成時点では、メシアの初臨と再臨の区別はないでしょう。


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第95篇 [詩篇]


人が罪深いのは、確かに神さまの力を見たにもかかわらず、
信じようとせず、悪く言い、他の神々に向かう。



9 NIV
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where your ancestors tested me;
they tried me, though they had seen what I did.
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JLB
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あの時、あなたがたの先祖は、
わたしの奇跡を何度も目にしながら、
信じようとしなかった。
わたしがどこまで忍耐するかを試そうとするように、
彼らは不平やぐちを言い続けた。
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新共同
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あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
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私の場合、

2010年8月6日に「VBC」の言葉を頂いた。↓

   ビーカーの考え方の命名
   http://1rin.blog.so-net.ne.jp/2010-08-06-1

翌日7日に、↓で神棚仏壇が習慣であることを書いている。

   ご神仏
   http://1rin.blog.so-net.ne.jp/2010-08-07-2

さらに、8日に、↓で絵をUPしている。

   徳のビーカー
   http://1rin.blog.so-net.ne.jp/2010-08-08

   徳のビーカー2.JPG


ここがまさに、私の罪である。

 2010年4月30日にブログを開始し、暗闇にいた私は、
 
 5月か6月頃に、「キリスト教の神さまがいるなら・・・」
 「助けてください」だったか、「憐れんでください」と心の中で哀願した。

 明確に「キリスト教の神さま」と指定したにもかかわらず、
 8月7日では揺り戻している。

 


 神さまの憐みに感謝せず、洗礼に至ったのが6年後の2016年8月21日だった。


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第94篇 [詩篇]

20 NIV - JLB - 新共同
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Can a corrupt throne be allied with you—
a throne that brings on misery by its decrees?

どうか、悪が正義を打ち負かす腐敗した政治を、
あなたが支持し、
存続させることがありませんように。

破滅をもたらすのみの王座 掟を悪用して労苦を作り出すような者が あなたの味方となりえましょうか。
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神から離れた人間の王座は永遠ではあり得ないということでしょう。
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第93篇 [詩篇]


捕囚から帰還した後に、神政復興運動が起こったようだ。
原理主義運動なのでしょう。当然に神を賛美する。


5 NIV
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Your statutes, Lord, stand firm;
holiness adorns your house
for endless days.
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新共同
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主よ、あなたの定めは確かであり あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。
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まぁ理解できますね。


リビングバイブルでは硬い訳になっています。

JLB
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そのおきては不変で、
その支配の原理は、きよさです。
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この訳の良し悪しを判断できないということは、
まだまだ私は未熟だということです。
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第92篇 [詩篇]

神を信じる人は、年老いても若々しいとある。


14 NIV-JLB
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They will still bear fruit in old age,
they will stay fresh and green,

白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし
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確かに、そうなのでしょう。


が、寿命で言えば、別の話で、日本人は長い。
霊的なエネルギーが宿るのでしょう。

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第91篇 [詩篇]


14 NIV
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“Because he[b] loves me,” says the Lord, “I will rescue him;
I will protect him, for he acknowledges my name.
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新共同
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「彼はわたしを慕う者だから 彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
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慕う者でなければ、神さまに救ってもらうことは期待できない。

「神を愛せよ」という命令に違和感があったが、
その通りですね。
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第90篇 [詩篇]

神の人モーセの祈

とのことだが、多くの学者は否定するそうだ。
誰かが表題をつけた。

激動のモーセの120年の歴史があって、
具体的なエピソードが1つも含めていない。

強いて言えば10節に、

10 NIV-新共同
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Our days may come to seventy years,
or eighty, if our strength endures;
yet the best of them are but trouble and sorrow,
for they quickly pass, and we fly away.

人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
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健康であっても80歳と言い、

12節で、

12 NIV-新共同
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each us to number our days,
that we may gain a heart of wisdom.
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
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荒野で民を率いている40年の間に、この12節を歌ったとは思えませんね。
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第89篇 [詩篇]

捕囚期の詩のようだ。
ダビデと約束されたダビデ契約を信じてはいるものの、
現実の状況に対して、神さまに問いかけている。


49 NIV-新共同
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Lord, where is your former great love,
which in your faithfulness you swore to David?

主よ、真実をもってダビデに誓われた あなたの始めからの慈しみは どこに行ってしまったのでしょうか。
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が、北と南に別れ、北は神から離れた王ばかりだった。
南には善王も多かったが、結局は捕囚となる。

それも、神から離れた民が悪い。

が、ダビデ契約は、イエス・キリストにより永遠のものとされた。

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第88篇 [詩篇]

詩編中、最も陰鬱な詩のようだ。
が、少し前の私でもある。


6 NIV-新共同
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You have put me in the lowest pit,
in the darkest depths.

あなたは地の底の穴にわたしを置かれます 影に閉ざされた所、暗闇の地に。
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16 NIV-新共同
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From my youth I have suffered and been close to death;
I have borne your terrors and am in despair.

わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。
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17 NIV-新共同
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All day long they surround me like a flood;
they have completely engulfed me.

それは大水のように 絶え間なくわたしの周りに渦巻き いっせいに襲いかかります。
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こういうことを思ってました。


大水は怖かったですね。

4才位の時の海で溺れ苦しむ記憶が今だに残っており、
また、まさに大水の中で溺れそうになる夢、
ヘドロのような液体に溺れ苦しむ夢も記憶にあります。


洗礼前まで、悪夢に苦しむこと頻回でした。

新約時代はイエスの福音を信じることで希望が与えられるので、
儀式とはいえ洗礼というのはありがたいものでした。


受洗した教団を去ろうが、洗礼式を受けれたということ自体が
神さまの恩寵なのでしょう。

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