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第12章 22-37 [マタイ伝]

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And so I tell you, every sin and blasphemy will be forgiven men, but the blasphemy against the Spirit will not be forgiven.
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
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何かの本で、この節を読んで、ずっと気になっていました。
悔い改めることで赦される罪はあるが、そうでないものもある。
この節の言葉が、聖書中の最も畏れる言葉ですね。
「神はいない・・・」
「一神教という砂漠の民の妄想・・・」
とか、冒涜しまくってましたからね。恐ろしいことです。

第12章 9-21 預言者イザヤ [マタイ伝]

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"Here is my servant whom I have chosen, the one I love, in whom I delight; I will put my Spirit on him, and he will proclaim justice to the nations.
He will not quarrel or cry out; no one will hear his voice in the streets.
A bruised reed he will not break, and a smoldering wick he will not snuff out, till he leads justice to victory.
In his name the nations will put their hope."

「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
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預言者イザヤはユダ王国後期、紀元前700年頃の人のようだ。
イメージするメシア像としては、この文章を見る限りイエスを具体的に示したものではなく一般的なものではあるが、
それでも、人々に希望を与え、それが記録として残り、語りつがれ、イエスが歴史に登場するまで、民族を存続させたということが功績なのかもしれない。
絶望の状況で、希望を語る者がいなければ、民族は消滅するだろう。
預言者の存在は、現代の感覚では軽く見てしまいがちであるが、極めて大きい。
izaya.JPG
火で唇を神聖にするイザヤ
(ベンジャミン・ウエスト画 1782, ボブ・ジョーンズ大学蔵)

第12章 安息日に麦の穂を摘む [マタイ伝]

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If you had known what these words mean, `I desire mercy, not sacrifice,' you would not have condemned the innocent.
もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
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これは、イエスがパリサイ派の者に言った言葉である。

「わたしが喜ぶのは
  愛であっていけにえではなく
  神を知ることであって
  焼き尽くす献げ物ではない。」  (ホセア6:6)

旧約聖書のホセア書の言葉では「愛」となっているが、
神が生贄を求めていないのは旧約聖書に書いておりパリサイ派も知っていたが、
彼らは律法主義となり、現代の「コンプライアンス」と言えば正義と思っている者と同様、他者の罪を法の生贄の如く裁く。

また、生贄を用意して神に祈祷するのも邪教ということになる。

第11章-2 [マタイ伝]

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And you, Capernaum, will you be lifted up to the skies? No, you will go down to the depths. If the miracles that were performed in you had been performed in Sodom, it would have remained to this day.
But I tell you that it will be more bearable for Sodom on the day of judgment than for you.
また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。
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イエスのガリラヤ伝道の中心地であったカファルナウムでは、イエスの恩恵に与りながら、信じなかったため、ソドムの地よりも重い罰を受けると言われる。

紀元7世紀までは人が住んでいたようで、その後廃墟となったようだ。
マタイの召命もカペナウムであったので、記憶に残り福音書に残したのだろうか。

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イエスが教えていたというカペナウムのシナゴーグ

第11章 洗礼者ヨハネとイエス [マタイ伝]

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From the days of John the Baptist until now, the kingdom of heaven has been forcefully advancing, and forceful men lay hold of it.
彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
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洗礼者ヨハネが活動してから、暴力的に進められ、奪われようとしているようだ。
極左暴力革命の表現のようだ。(笑)



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He who has ears, let him hear.
耳のある者は聞きなさい。
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he と let を使った面白い表現ですね。


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The Son of Man came eating and drinking, and they say, `Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and "sinners."' But wisdom is proved right by her actions."
人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
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イエスは気さくに徴税人や罪人と飲食し、人は悪く言ったようだ。
それは表層で、行動によって知恵の正しさは証明されるとのことだ。
ヨハネは、禁欲で飲まず食わずでいると、悪霊に取り付かれていると言われたようだ。
何かをしようとする者に対して悪く言う性質は日本人も同様だろう。

第10章-4 [マタイ伝]

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Whoever finds his life will lose it, and whoever loses his life for my sake will find it.
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
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こういうセリフをドラマや映画で聞きましたが、ネタ元が聖書とは知りませんでした。
ということで、4回に分けた第10章をようやく終えました。

第10章-3 [マタイ伝]

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Do not be afraid of those who kill the body but cannot kill the soul. Rather, be afraid of the One who can destroy both soul and body in hell.
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
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日本人は神々を拝み、Godを畏れない。このことが日本人的な「いやらしい」判断を許容し顰蹙を買うのだろう。
繰り返すことで感性が鈍くなり自滅するのだろう。
そのことを表現したのが第10章28節なのかもしれない。

第10章-2 [マタイ伝]

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I am sending you out like sheep among wolves. Therefore be as shrewd as snakes and as innocent as doves.
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
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この蛇の注意深く鋭敏で鳩のように純朴な2つの性質を兼ね備えたのが、
イエスとパウロらしい。
パウロは迫害者でもあったので逆となり極めて敏感なのは理解できる。
イエスが敏感だったのは、不義の子という噂でもあったからなのだろうか。


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Brother will betray brother to death, and a father his child; children will rebelagainst their parents and have them put to death.
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
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ユダヤ社会のことのようだが、共産主義の生みの親のごとくよくできた話だ。

第10章-1 [マタイ伝]

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If anyone will not welcome you or listen to your words, shake the dust off your feet when you leave that home or town.
I tell you the truth, it will be more bearable for Sodom and Gomorrah on the day of judgment than for that town.

「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
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12人の弟子を派遣する際に、彼らに言ったこと。

彼らの授かった能力や振る舞いを全く受け付けない町のことだが、
異教の力が強い町のことだろう。日本も受け付けない国だが、そうなのだろう。

信長は受け入れたが、その死により教会が襲撃される土壌は空恐ろしい。
現在も基本的にはそのままで、マグマのような負の磁場なのだろう。
裁きの日がいつかは知らないが、あるいは過ぎたのかは分からないが、
寒い言葉である。

第9章-2 [マタイ伝]

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and their sight was restored. Jesus warned them sternly, "See that no one knows about this."
But they went out and spread the news about him all over that region.
二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
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治療した者に「誰にも言わないように」と度々言うが、広まる。
この辺は杓子定規にイエスの厳命を破ったとのことで罰があたることはないようだ。
基本的に善行をした人間の慎みに対して、ブラボーという意思なので、
それで罰が当たれば、こんな恐ろしい神はいない。
だからといって、何でも許されるという訳ではないのは当然だろう。


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But the Pharisees said, "It is by the prince of demons that he drives out demons."
しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
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面白いのは、パリサイ派にしたら、そう見えるのだろう。
病人にとっては、治してくれるなら、善霊だろうが悪霊だろうがどちらでもかまわないが既得権者にとっては、改革者たちの行為が善であろうが悪人に見えてしまう。


昨今、「改革」と叫んで善人を印象づけようとする風潮もあったが、その実、キリストの教えとは間逆のパリサイなグローバリズムとやらに辟易してる人は多いとは思いますね。