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第19章 1-30 イスラエル12部族 [マタイ伝]

19
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Jesus replied, "Moses permitted you to divorce your wives because your hearts were hard. But it was not this way from the beginning.
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
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パリサイ派に離婚のことを聞かれて答えた言葉。
夫婦が破綻してしまい苦しむ妻を救わんがためのモーセが許しているのであって、
罪であることが免責されるわけではないようだ。


28
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Jesus said to them, "I tell you the truth, at the renewal of all things, when the Son of Man sits on his glorious throne, you who have followed me will also sit on twelve thrones, judging the twelve tribes of Israel.
イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
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ソロモン王の死後に南北に国が分裂し、BC722年北王国がアッシリアに滅ぼされる。
南王国ユダの2部族の者たちが、「失われた10支族」と呼んだようだ。
厳密には南王国にはユダ族・ベニヤミン族・レビ族の3部族がいたようだが、
レビ族はカウントしないそうだ。極めて少数なのやもしれない。
が、本当は、北は11部族、南は8部族、南北に分住していたのは6部族だったようだ。

そして、700年たって、イエスも12部族と言っているように、
どうも、実際の数というよりは、12という数字が好きなようである。

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第18章 1-35 [マタイ伝]

21-22
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Then Peter came to Jesus and asked, "Lord, how many times shall I forgive my brother when he sins against me? Up to seven times?"
Jesus answered, "I tell you, not seven times, but seventy-seven times.
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。-----


当時のイスラエルでも、3度までは赦すという慣習はあったそうだ。
まさに「仏の顔も3度まで」である。

これに対して、ペトロが多めにしてイエスに聞くと、7の70倍だそうだ。
490回という意味ではなく、無限ではないにしても、ほぼ無限ということだろう。

しかし、15節から、兄弟の罪を最終的には教会に相談してそれでも言うこと聞かなければ交際を絶てという趣旨のことを言っているので、悔い改める限りにおいては無限ということのようだ。

中国の孔明の「七禽七縦」は、戦略的に屈服させたのであって、無関係ですね。


第17章 1-27 エリア [マタイ伝]

3節
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Just then there appeared before them Moses and Elijah, talking with Jesus.
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
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イエスが死期が近づいてきた頃、ペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人を連れて山に登った際に、モーセとエリアが現れる。

エリアは旧約世界でモーセの次に偉大な預言者のようだ。同時代に数百人いた預言者集団の首席であり、エリアやキリストが登場すると期待されていた時代、
パリサイ派は、イエスをエリアの再来とみなしたようだが、イエスはエリアの再来を洗礼者ヨハネと暗示した。

パリサイ派はイエスをキリストと認めたくなかったためエリアの再来だろうと評価したようだ。

ホセ・デ・リベーラの「エリヤ」の手から火の竜巻が噴出しているが、
こういう想像は日本ではお目にかかれないのでしょうね。
誰がモデルでどういうノリで書いたのか興味がでてきました。

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第16章 1-28 ペトロ [マタイ伝]

15-16
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"But what about you?" he asked. "Who do you say I am?"
Simon Peter answered, "You are the Christ, the Son of the living God."
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
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イエスが死期が近づいているので、弟子に自分のことを聞く。
ペトロの言葉にイエスは良しとするが、ここで、偉人だの預言者のような、
既存の表現ならば、死ぬに死ねない心境だったらしい。

この「神の子」と言えたペトロも、のちにイエスに「サタン」呼ばわりされるシーンが
くるが、ここでのペトロの言をもって、ローマ教会の座が継承されていくようだ。

この同じことを堂々と言えるには、かなりのハードルだろう。
私は、「偉大な霊能者」と数年前に言ったことがあるが、
そういう表現一つに考えがでてくる。言葉というものを軽視はできない。

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ピーテル・パウル・ルーベンスの描いた初代教皇ペトロ

第15章 1-39 [マタイ伝]


10-11
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Jesus called the crowd to him and said, "Listen and understand.
What goes into a man's mouth does not make him `unclean,' but what comes out of his mouth, that is what makes him `unclean.'"
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
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イエスが意外にも卑近な例を使った箇所。
口から出る物(言葉)が汚いと。
これで分かりそうなものだが、ペトロが後に詳細を聞いて、
イエスにやや呆れられる。
"Are you still so dull?" Jesus asked them.
「まだ、分からないのか?」

イエスの語調がキツイのか丁寧なのかは分からない。

25-26
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The woman came and knelt before him. "Lord, help me!" she said.
He replied, "It is not right to take the children's bread and toss it to their dogs."
女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
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異邦人の女性を「犬」呼ばわりする。

27
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"Yes, Lord," she said, "but even the dogs eat the crumbs that fall from their masters' table."
女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
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女はそれでもイエスに救いを求める。もちろんイエスは応える。

イエスの優先順位はイスラエルの民にあったが、しかし無理解もあった。
しかし皮肉にも異邦人に信頼され心中複雑だったということだろう。
「犬」呼ばわりしたが、それに対して子どもを救う一心から言う。

神の恩寵やイエスの福音を受けるのを「当然の権利」と捉えてはいけないのだろう。
このカナンの女性のように卑屈にならず堂々たる謙遜と信頼をもって、
切り返すのはなかなかできるものではない。立派である。

第14章 1-36 サロメ [マタイ伝]

8節
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Prompted by her mother, she said, "Give me here on a platter the head of John the Baptist."
娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。-----

ヘロデが弟の妻ヘロディアを娶ったことを、かつて洗礼者ヨハネが
"It is not lawful for you to have her."
「それは、よくない」
と言ったので牢に入れていたところ、
ヘロデの誕生日にヘロディアの娘は踊り「褒美に何でもやろう」と言わしめた。

その褒美に首を求めた娘サロメの異常な要求を、威厳を守るため実行する。

新約聖書では「サロメ」という名は記されていないが、
他の文献では西暦14年頃に生まれたようである。

強烈ですね。
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ポール・ドラローシュによるヘロデヤ

第13章 31-58 new treasures as well as old. [マタイ伝]

52節
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He said to them, "Therefore every teacher of the law who has been instructed about the kingdom of heaven is like the owner of a house who brings out of his storeroom new treasures as well as old."
そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
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天の国のことを学んでいないパリサイ派に対置して、古いもの(=旧約聖書)だけでなく、新しいもの(イエスの福音)も大事だということのようだ。


旧約の一神教世界と日本の戦前の一神教的国家神道の類似性が面白い。
前者のグローバリズムと後者のグローバリズム的大東亜共栄圏。
経済の理想像としては類似し、戦後レジームからの脱却といいつつも
実は似たもの同士で、無意識に完結をめざしてしまう。

同祖論の可否は横に置いといても、イエスの福音を拒否する対照と捉えるフレームは
面白い。

第13章 1-30 「種を蒔く人」のたとえ [マタイ伝]

3-4節
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Then he told them many things in parables, saying: "A farmer went out to sow his seed. As he was scattering the seed, some fell along the path, and the birds came and ate it up.
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
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19節
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When anyone hears the message about the kingdom and does not understand it, the evil one comes and snatches away what was sown in his heart. This is the seed sown along the path.
だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
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イエスは、群集には例え話を用いる。その1つの「種を蒔く人」の例えで、
「道に蒔いた種が鳥に食べられる」の意味は深い。

道は人が踏むので固まっているので、自らの固定観念や因習に凝り固まっていることを示しており、そこに蒔いたキリストの言葉は根付かないということのようだ。

守り継ぐべき伝統もあろうが、悪しき因習に固執して罪を犯してはならないということだろう。

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種まく人(Le semeur)
1850年 ボストン美術館

ミレーの「種まく人」はヨハネの福音書第12章24節を絵画化した作品のようだ。

第12章 46-50 イエスの母、兄弟 [マタイ伝]

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He replied to him, "Who is my mother, and who are my brothers?"
Pointing to his disciples, he said, "Here are my mother and my brothers.
For whoever does the will of my Father in heaven is my brother and sister and mother."
イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
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弟子と話ているところ、親類が待っていたのに、誰かが気をつかって知らせてくれたのに対しての返事。

まぁ、これを親不孝と解釈するは、あまりにも了見が狭い。
ここをとやかく言うのは難癖の部類でしょう。


第12章 38-45 [マタイ伝]

第12章 38-45

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The men of Nineveh will stand up at the judgment with this generation and condemn it; for they repented at the preaching of Jonah, and now one greater than Jonah is here.
ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
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異邦人であったニネベ人は預言者ヨナの説教で悔い改めたが、
当時のユダヤ人は、ヨナよりもはるかに偉いイエスのことに耳を傾けなかったので、
裁きの時に、異邦人であるニネベ人に裁かれると言っている。

ここでのポイントは、選民でない異邦人でも悔い改めればOKということなのだろう。
でないと、世界宗教にはならない。

三日三晩ヨナは大魚の腹の中にいたということで、イエスに通じるが、
イエスは金曜の夜から日曜の朝なので、正確には三日三晩ではない。
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『大魚に吐き出されたヨナ』
(ギュスターヴ・ドレ)