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第14章 1-35 「聖なる憎」と「聖愛」 [ルカ伝]

イエスの弟子になるには、「憎しみ」が必要だと言う。
およそ彼の口から出る言葉とは思えない。

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"If anyone comes to me and does not hate his father and mother, his wife and children, his brothers and sisters--yes, even his own life--he cannot be my disciple.
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
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聖書学者の黒崎幸吉が旧新約聖書注解を著したのが昭和35年、硬い文章である。


要は「ピュア」であることを求めているだけと言える。
「ピュア」であろうとするならば、「憎しみ」は避けられない。

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イエスの弟子となろうと思って彼の許に来る者は、自己の生命は勿論のことその肉親をも「憎む」のでなければならない。人間は自然のままでは自己中心的であり、本能、私慾が彼を支配する。肉親の愛もこの本能から生じ、私慾私情がこれに附随する。この人間の自然性は神中心の心、イエスに従う心に対して反対の方向に働く。真にイエスに従わんと欲する者は、必然の結果としてこの自然性の反抗に対して聖なる憎をいだく。この憎みは勿論自己中心の、利害本位の、または人情的の憎悪ではない。自然性それ自身に対する憎悪でなければならぬ。しかし真にイエスのみを愛しその弟子となる者はまたその聖愛をもって父母・兄弟、および己が生命をすら愛するに至る。
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